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ジョンソン・アンド・ジョンソン
ベービープロダクト
雑誌1ページ、シリーズ広告

これはDY&R時代の仕事。実際に赤ちゃんを撮影するのは大変で、それなりのノウハウがいることを、その時知った。モデルになる赤ちゃんも1人では儘ならず(もちろん広告として使うのはどれか一枚だけど)10人ほど待機してもらい、ご機嫌の良い赤ちゃんで撮影する。そして、ご存じのとおり東洋人の赤ちゃんはお尻が青い、いわゆる蒙古斑というやつだ。広告の絵柄としては一般的に消して表現する。今のようにDTPがなかったからダイトランスファーという高価な技術処理を施した。またこれと同じシリーズのテレビコマーシャルも作った。 AD:石川源
C:長谷川晴二
P:田沼武能

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紅花食品の紅花油の雑誌1ページ、シリーズ広告

紅花食品とは会社が出来た時からのお付き合い、マークロゴ作りから始めました。社長の島田さんとは同い年、すっかり意気投合、友だちになりました。商品もどんどん増え、けっこうなアイテム数になりましたが、全てのパッケージデザインをやらせてもらいました。これは基幹商品の初期の雑誌広告、ふたつ、一見同じに見えますが、よく見ると背景が違がっているんです。RED.の方はエジブルフラワー(サラダなどにして食べられる花)、BENI.の方は野菜類、それらを黒い石の上に並べて、缶もその場に直接配置した一発写真なんです。文字のはいる部分はポラロイドを見ながらスペースを、あらかじめ作りました。自分のデザインしたパッケージを主人公に広告を作る作業は幸せな作業でした。 AD/C:石川源
D:秋山香代子
P:鹿釜孝博

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イーストウッドカントリー倶楽部
新聞全15段シリーズ広告

バブルの時代、ゴルフ場のCIを3つ作った。このカントリー倶楽部は住友商事のもの。マーク、ロゴの制作からステーショナリー、看板類、車両。メンバー勧誘のための豪華カタログ。そして最後に、この広告を作った。とかく、オーガスタ風とか、サンタフェ風とか、洋風の開発プランの多い中、日本には日本のコースを造りましょうと、(実は私、米国生活から戻ってきたばっかりの時だった。)提案して採用された。
広告表現をするにあたり、日本の四季をシリーズで見せようと思い、プレゼンテーション用のカンプは江戸末期の水墨画の画集からアレンジして提出した。さてさて、OKをいただいて実制作に取りかかり(昔の人の絵を盗用するわけにもいかず)だれに水墨画を描いてもらえば良いのか、困ってしまった。どうさがしてもコマーシャルのイラストレーターには、こんな風に描ける人はいなかった。やはりこれは日本画家だと思い、勇気を奮い起こしとある方に電話をしてみたら「広告の絵なんぞ描かん!」と、しかられた。そこで次の手、母校・多摩美の日本画科の生徒にひょっとして、こういうのうまいヤツいないかなと学生課に電話して趣旨を話した。「それでは掲示板に貼りだして、腕に自身のあるアルバイター、探してみましょう。」との応え、まいった。学校と違い僕たちの仕事はスピードと確かさが命、悠長に待ってるわけにはいかなかった。次に思いついたのが、「やっぱ多摩美よりも芸大だよなー」ってこと、東京芸術大学の学生課に電話をしてみた。こちらの学校の学生課は「それじゃ日本画の研究室に繋ぎますので、直接話してみてください。」とのこと。そこがなんとあの平山先生の研究室、助手(大学院生)の、とある方に趣旨を説明した。そしたら、僕やってみようかな~、のお応え。すぐに上野へと車を飛ばすことになった。校門の守衛室で平山先生の研究室に来たことを告げると、どうぞどうぞこちらへご駐車くださいと、なんぞ気分の良い対応、他校の教授か画家仲間か評論家とでも思ったのだろう、この時ばかりはちょっと歳をとっていて、ちょっと太ってて、髭の生えてるのも悪くないなぁと、感じた次第。久しぶりの大学キャンパス、外界(世の中)とは全く違う、何とも不思議な空気を吸いながら研究室に上がっていくと、そこはまるでインディジョーンズ氏の部屋。(そういえばジョーンズ氏も大学教授だ。)薄暗く、ほこりっぽく、鳥や獣の剥製が置いてあったりして。もちろん大先生は不在だったが、電話で話した小先生(助手の方)が我が家のように迎えてくれた。お湯を沸かしてインスタントコーヒーなどまで淹れてくれた。プレゼンに使った江戸の水墨画はもちろん巨匠のもの、小先生、初め自信なさげ・・・「頑張ってみましょうよ!あなたならできますよ!なんたって芸大受かったんだから!絵の具代稼いで、たくさん絵描きましょうよ!」などと説得(?)。ちょっと長くなったけど、要するに苦労して作ったシリーズなのです。ちなみにその小先生今では有名な日本画家なのです。ですのでここにはイラストレーター○○○○とお名前の乗せるのは控えることにしました。なんせ「池ぽちゃ」の絵まで描いてもらちゃたんですもの。 AD:石川源
D:秋山香代子
C:三井浩
I:○○○○

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イースタン航空の雑誌広告

イースタン航空は1991年に倒産、現在はない。かつてはアメリカン航空、ユナイテッド航空、デルタ航空と共に"Big4"と呼ばれる大手(米国)国内線航空会社であった。これは1976年の広告、米国の建国二百年祭の時のものである。イラストは小森誠氏に描いてもらった。

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地中海クラブの雑誌広告

地中海クラブはフランス製のリゾートクラブです。フランス人の考えたエンターテイメントがふんだんに盛り込まれています。撮影に何度も南の島を訪れました。僕が行ったのはニューカレドニアとマレーシア、10日間ほどの仕事で現地人のように真っ黒になりました。朝から晩まで忙しくOFFの時間はあまりありませんでした。

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スイスの時計「チソット」の雑誌広告

この写真は合成ではありません。猫のモデルと手タレを用意して一発撮影です。猫のご機嫌をうかがいながらの撮影は大変でした。

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エスティーローダーのタブロイド広告

70年代にエスティーローダーの仕事をしていました。この手の国際企業は全世界センターコントロールで同一の広告を流していました。これはタブロイド紙のペイドパブ扱い。ですので記事風のオリジナルデザインが可能でした。もちろんメインビジュアルはアービング・ペン撮影,モデルはカレン・グラハム等ヴォーグの表紙を飾ったトップモデルです。

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ドクターペッパーの雑誌広告

ドクターペッパーが日本に新発売された当時の広告。第一弾での登場広告でいまひとつ売り上げが伸びなかったため、この第二弾は軽いネガティブ広告「青春、それは大人にはわからない味にひかれる時。」と、なじみのない味を表現、若者の心をくすぐってみた。モデルに新人の浅野温子さんを起用、思いっきり不良を演じてもらった。(カメラは加納典明氏)

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ブラックアンドデッカーの新聞広告

ブラックアンドデッカーはアメリカの電動工具カンパニー。プロ使用のものが主流ですが、これは家庭用のドリルの広告です。

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香港観光協会の雑誌広告

70年代の話です。香港が中国返還される前のことです。香港政府の観光客誘致の雑誌広告を担当していました。毎年一回その年の分の写真を撮りにカメラマンと香港に行っていました。政府の仕事なのでいろいろな場所に行けて良い思い出です。僕は5年間担当しました。

レミー・マタンの雑誌広告

これはレミー・マタンの中でも特別なキュヴェ・スペシャル、通し番号付きの限定ボトル、木箱入りでした。宝箱を開けた時のような表現をしてみました。写真は西宮正明氏にお願いしました。